剣道のお話


間合い
一足一刀の位置(中結びの位置)が間合いと勘違いしている方がいると思いますが、あくまでも一足一刀の間であって,必ずしもそこが打ち間になるわけではないと思います。懸かっている相手、待っている相手、騙し討ちをしようとしている相手、それぞれ打ち間が違います。一足一刀の間は一触即発の間です。攻め合いの間からこの一触即発の間までの攻防、さらに攻め込んでの打ち、人の心と心の葛藤(通い合い)が有るから剣道は面白いと思います。手元が浮くのはそこに焦りが有るから動いてしまう、下手に我慢をすれば体が居ついてしまい動かない、まだまだだなー、私の剣道…


なんば走りと現代剣道
なんばとは右手が前なら右足が前で歩く、または走る、日本古来の歩き方(走り方)と言われています。よく言われているのは飛脚や忍者はなんば走で100Kmから200Kmを休まず走ったと言われております。百姓が鍬で畑を耕す動作、相撲取りが腰を落としてのすり足(運び足)、阿波踊り、餅つき、剣道等々明治時代以前の日本ではなんば歩きが生活での基本動作だったようです。武士がなんば歩きだったとよく聞きます、現代の剣道は右足、右手が前で構え、送り足で移動、常に左足は後です、まさしくなんば歩きです。しかしなんばで早く打ち抜ける事が出来るか?なんで現代は歩く時、走る時、右足が前の時左手が前なのでしょうか?ネットでは明治時代の頃、西洋の軍隊が行進をしている時にかっこよく整列をして行進をしているスタイルを真似たのが現在の形に、また西洋スポーツを取り入れた時に足と手は交互に動く運動が主流だったからとも言われております。では、戦で考えてみますと日本は刀を持って戦うときに右手右足が前で構えます。しかしながら、本当に今みたいな諸手で一気に振りかぶって打っていたでしょうか、戦国時代の足軽は皆、槍をもって突っつき合っていたと思います。馬上の武士は片手で(利き手)で振り回していたと思います。当時の刀は細身で軽く長く反りが比較的きつかった刀が室町、鎌倉時代の特徴です。江戸時代の頃は戦は収まり刀は見てくれ勝負の物になっており、見るからに切れそうで、また、見世物として太くて重い刀で罪人の首や胴を切っていたと思います。この時には今の剣道と同じように、左手で振り下ろし右手(利き手)で切り落とす位置を定めたと思います。では、西洋では戦いのときの構えは利き手に剣を反対の手に盾を持って戦います。その時(構え)の足はおそらく左足が前でしょう?右手が利き腕なら右手に剣を持ち左手に盾を持ちます。相手の打ちを盾でかわして、速右手で刀を打ち下ろした場合は右足は後でしょう、相手との間合いが離れていれば右足を踏み出して刀を打ち降ろすでしょう、この時はなんばですよね!実際になんばで手の振りを大きくしたならば早くは走れなかったです、なんばに慣れればわかりません。力を抜いて走れば早くはなくとも持続性は上がると思います。ネットでは末次選手やボルトがなんばで走ったと書いてありますが・・・私にはわかりません。剣道は構えはなんばでも実際は左で振り、左足で体を送り出し右足が前に出る動作だと思います。右手で強く竹刀を握って打ち込めば体が斜になり、なんばになってしまいます。



平常心
元々は仏教から来た言葉ですが、ここでは剣道を通して感じた平常心を書きしたためたいと思います。あくまでも私の感じたことです。
平常心は心穏やかに、焦らず、怯えず、平静でいる事、心静かに物を見、味わい、語り、感じ取る事、この境地を作ってくれる事が剣道と思っております。
要するに先を読んで余裕を持って備えよと言う事と思います。剣道に於いては対峙した際、攻め入られても平静を保ち打って来い、攻めて打ちに出る際も焦らずに打って来い、ここで間違ってはいけないのは、相手が打って来るのを待つのでなく、あくまでも相手に打たせる機会を作る剣道、そして、打ってくる前を打つ集中力(相手が打とうとする時を見極める) この動作は剣道では大事な事で、よく相手を動かして打てと表現されています。初段学科問題にもよく出てきますが、打突の機会について述べよと出ます、(打とうとするところ、居付いたところ、技の尽きたところ)要するに焦ってはダメ、居ついてはダメ、迷ってはダメです。逆に相手にダメな機会を作ってやればそこを打てます。要は打突部位(機会)を探すのではなく、打突をする機会を自分で作れば良い事です。まさしく心穏やかに焦らず、迷わず、居つかず平静にです。

少年剣道
今さらながら剣道って子供に何を教えるのか・・・ 相手に勝つ為、どうすれば勝てるか、色々なパターンを想定しながら対処法を考える、騙し討(打)ち、当て逃げ、それはただのゲームであり、もぐら叩きと同じ世界。古来の剣道とは刀で相手と対峙し、威嚇又は殺し合うためのもの、お互いに刀を抜いて間合いをじりじりと詰めていく間の、心の葛藤、向かっていく精神力が、どちらが強いかの勝負、気持の負けた方が頭を下げて、参った、または、刀を捨てて逃げてしまう、木刀での打ち合いも、打たれたら大怪我をするから形が生まれたので・・・真剣で勝負に挑んだ場合、はたして竹刀の様に一足一刀の間から捨てきって打ち込めるだろうか?騙し討ちが出来るほど心に余裕が持てるだろうか?危なくてそんな危険なことはできない、では、試合とは何を試しあうのか、心の強さ、向って行く精神力、集中力の持続、どちらが優れているかを競い合う、己の心、修練に耐えうる肉体、機を見て捨てきって打ち込む勇気、集中力と気力を養う為の修行ではないですか? 少年剣道はある程度、勝つ面白さがなければ剣道に興味を持ってもらえない、運動神経の良い子、器用な子に、ある程度動きの速い打ちを教えれば勝ち上がるけど、高段になれば通用しない、不器用な子でも継続して練習をする事で、大人になれば器用な子よりも昇段が早い。うまく出来ているもんです。要は相手と叩き合いではなく、如何に積極性の有る子に育てるかが目的ではないかと思います。やがて迎える受験戦争、剣道の試合と同じく自分の力で戦わなければなりません。周りでいくら勉強しろと騒いでも、一番プレッシャーを感じているのは子供本人です、親が代わりに受験をすることはできないのです。子供を信じて応援をするしかないのです。
皆さん、子供の為に焦らず、騒がず、自分自身耐える力を強く、頑張りましょう。


中学校の部活動
今時の親は子供の自主性を奪っている人が多いように感じる、親の都合で部活は休ませる、塾に通わせると言って部活を休ませる。最悪は家族旅行と言って部活どころか学校の授業まで休ませる。これでは部活動の顧問は馬鹿らしくて引き受ける先生はいなくなる。さもなくても仕事量が多くて忙しいのに・・・ 部活の目的は何でも一生懸命に成し遂げる子供の養成です。まさしく文武両道です。部活をさぼった子供は必ず言い訳、またはウソを付く、つまり言葉でその場を逃げる、おそらく親の後姿をみて学んだのでしょう。そのような事を学校では教えるわけがない。家庭でしか学べないことです。つまり親から学んでいるのです。
部活を休まず活動している生徒は学業の成績もよいです。高校の進学も素晴らしい学校に進学をしております。塾に行くからと休みがちな生徒は進学が残念な結果に終わった生徒が多いです。

団体戦と個人戦
個人が5人(7人、9人)で1チーム、半分以上の勝ち数、本数を取れば勝ち、只、それだけの目的の戦いだろうか?
団体とは仲間に迷惑をかけないために頑張る、日常の努力を怠っている人が試合に負けまいと一生懸命に頑張る、そのような人を仲間が勝っても負けても仲間と納得をするだろうか?
寄せ集めの仲間でも団体戦は戦える、団体とは国であり、学校であり、部活動の仲間であり、しいては家族である。要するに集団である。自分以外の人に迷惑をかけない、人を愛する心を持ち、助け合う事ではないでしょうか。団体戦とは一つの目的をもった仲間がそれに向けて頑張る、皆で頑張ったのだから勝ち負けの結果は皆で共有できる。ところが勝手な行動で皆と歩調を合わせずに負けたら、その負けはその人個人に責任がある。つまり団体に迷惑を掛けている事になる。団体戦はそのような事を知ってもらう為にあるのではないでしょうか。





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